Story
名前も、記憶も、過去もない。
――けれど、帰りたいと思える場所だけは、この手の中にある。
雨は、今日も
神室坂の輪郭を
溶かしている。
神室坂(かむろざか)。
雨の降らない日のほうが少ない、灰色の街。
濡れたアスファルト。
ビルの隙間に滲む排気ガス。
街灯の下で跳ねる雨水。
その雑居ビルの一室に、
擦れた看板を掲げた探偵事務所がある。
御厨探偵事務所。
所長は、刑事であることをやめた男――御厨 景。
助手は、ある日からそこに居着いた
黒いセーラー服の少女――マユ。
景は、足で証拠を拾う。
マユは、人の感情や怪異が発する"ノイズ"を聴く。
二人のもとに持ち込まれるのは、
警察が事件と呼ぶには曖昧で、
けれど日常と呼ぶには歪みすぎた依頼ばかり。
嫉妬。信仰。後悔。愛着。
名づけられなかった感情は、やがて形を持つ。
これは、雨の街の探偵と、
借りものの名前で生きる少女が、
日常と怪異、生者と死者、現在と過去――
その境界を歩く物語。
「呪い、ねぇ。
……ウチはいつから、オカルト専門の駆け込み寺になったんだか」


IN THE
RAIN